その23.8月6日

 最近は8月6日(原爆の日)を略して「ハチロク」という言い方が定着しているようである。この日、わが社には市場業務以外の大事な仕事がある。
広島市の平和記念式典の献花の準備である。前日(今年は暦の関係で8月3日)に
県内の生産者から、菊・小菊などの寄付をうけ、買参からはセリで購入した商品を
いただく。そして、それらの無料提供の花を、花満社員が、ほぼ同じ長さにそろえ
下葉を落とし、大束にくくって、水につけてゆく。その数、約1万本。
これが一般献花用である。それ以外に、セリ前に取っておいた5種1500本の花を使って、100個の花束を作る。こちらが来賓用の献花である。これらの花を
式典当日の朝6時、トラックで平和公園まで持って行き、広島市の担当者に納める。これが40年位前から、生産者と買参そして市場が協力して行っているボランティア活動である。戦後62年という時間の流れとともに、被爆体験者は業界にも少なくなり、原爆も戦争も風化している。そのような状況の中で、この活動が続いているのは厳粛な慰霊式の舞台を陰で支えている、という「誇り」のようなものかもしれない。
 

今から約40年前、私の高校の頃は戦後20年を経ているとはいえ、まだ戦争の跡が色濃く残っていた。平和公園の北側の河辺には「原爆スラム」といわれたバラックが川土手の一帯を占拠していた。広島城周辺は今日のように整備されておらず、軒先にあたりそうなほど狭い、舗装のない道をバスが土煙を上げて走っていた。校舎の立て替え工事では、被爆当時の遺骨が出てきたという話も聞いた。私が入社した当時
先輩社員のほとんどが被爆者であった。しかし、ともに仕事をしていく中で、被爆体験について聞くことはないまま、死亡あるいは退職により、会社を去られた。人は過去のつらい思い出は、無意識のうちに忘れようとするようで、私もあえて聞くことをしなかったのである。しかし、そんな過去の体験を残してゆく努力もまた、必要な事である。昭和20年3月、一兵士として東京大空襲を体験した84才の父は今、当時のことを執筆中である。

「わりいことは、はよう忘れたいけんのう。ほいじゃが、ちいたあ覚えといて、伝えちゃらにゃあいけんよのう」