その21.居酒屋

 7月某日夜9時、東京、西武池袋線練馬駅をおり、私は居酒屋「K」に向かう。駅前の信号を渡り路地を入ると、大きな赤ちょうちんが見える。くすんだ紫の「のれん」を分け、立て付けの悪いガラスの引き戸を開けると、賑やかな笑い声と熱気。週末とあって、店内はほぼ満席である。前に4人がけのテーブルが7つ、右側には7、8人座れるカウンターが2列、40人も入ればいっぱいの店である。白い割烹着に、ねじり鉢巻き―いつもの格好で初老のオヤジが、炭火の前で串焼きを作っている。忙しく手を動かしながら、目を上げ、「おう、来たの」―無愛想に声をかけてくる。私はオヤジの指差すカウンターの中に空席を見つけ、両側の男の間に肩を押し込むようにして座り込む。―「生ビール大と煮込み!」

 ここは私の青春時代の思い出の場所である。よく友人達とここで飲み、語り合ったものだ。あれから30余年。東京の街もずいぶん変わり、きれいになった。私を取り巻く世界も、あの頃と全く違うものになった。しかし、この店は変わっていない。ホッピー350円、焼酎250円、煮込み330円、冷奴150円、もつ焼き80円etc・・・・・。黄色く変色したメニューが古びた板壁にずらりとかかっている。まるで70年代の東京にタイムスリップしたような、不思議な感覚を私に抱かせる。変わったことと言えば、60代の後半になったであろうオヤジの背中が曲がったことと、昔は夫婦2人だけだった店内に、4人のフィリピン娘が忙しく立ち働いていることぐらいか。

 さっきから、となりの席の坊主頭のおっさんが、私に話しかけてくる。同年輩であろう。私が広島から来たことを告げる。「おれは長崎の人間だよ。ずいぶん帰ってねえなぁ。集団就職でよ、15の時にバスで出てきたよ」東京は地方人の街である。私たちは昔話を始める。白黒テレビや「力道山」の」話等々。男が帰り、ふと気づくと、女の子が暖簾をしまい始めた。時間は10時45分、早い店じまいだ。私は勘定をすませ、立ち上がる。「オヤッサン、また来るわ」火を落としている手を休めて、オヤジが振り向き、手を差し出してくる。「元気でな」―乾いた固い手である。

「たまにゃ一人で飲むんもええが、酒は気の合うもんとワイワイやるんが最高よのう」