前回のコラムで書いた競馬について、どうしても忘れがたい友人がいた。時は70年代前半、舞台は東京である。当時、学生の身でありながら数多くのアルバイトをしていた私は、時給の高い肉体労働をすることが多かった。その中の一つに、着物の展示会場を造るという仕事があった。畳や木材などの積込みや搬入といった作業であったが、給料が日払いで食事付き、泊まりもOKなどの好条件もあり、多くの若者が集まっていた。私のような貧乏学生のみならず、作家志望、マンガ家志望、劇団員、元自衛隊の空手家、売れないミュージシャン等々―それは今にして思えば、70年代の青春群像そのものであった。
そのような若者集団で、一緒に汗をかき、酒を飲み、徹夜で語り合う中で出会ったのが、Sくんであった。多くの個性の強い男たちの中で、温厚でおとなしい彼は目立たない存在であったが、二つの点で一目おかれていた。一つは、彼が日本最高学府のT大工学部の「元学生」であったこと。もう一つは競馬で大穴当てているということであった。五千円の馬券が300倍になったというのである。すなわち、当時の金で150万円を得たということになる。当時の私の古アパートの家賃は一万円、一ヶ月の仕送りは三万円という時代である.現在の価値で言えば、3~4倍になると思われる。なぜ大学をやめたのか彼の口から聞くことはなかったが、競馬への「のめり込み」が原因でやめた、という噂であった。彼の競馬の持論は、「事前に決めていた馬を、競馬場に行って欲を出して変えたりしなければ、競馬で損をすることはない」というものであった。
その後、彼は再びT大を受験し、今度は文学部に合格する。「心理学」をやりたいと言っていたが、私が広島に帰って数年後、音信が途絶え、現在の消息は不明である。優秀な研究員になれた人間であろうに、大穴馬券の「幸運」が彼の人生を狂わせたのではあるまいか。もし、生きているのであれば、再会し語り合いたいのだが・・・。
「人間万事塞翁が馬。何が幸福か、何が不幸か、死ぬまでわからんよのう。」