わが社では、2年前から営業のセリ人など、ほとんど全員に会社のケイタイが支給されている。市況や注文等の連絡は、これでずいぶんと楽になった。ケイタイのおかげで、生産者や売店に、いつでも迅速な対応ができるだけでなく、今では相対取引の処理や、鉢物の置場入力にもケイタイを使用している。さらに社内の重要な伝達事項もメールで流れてくる。現場の営業担当にとって「ケイタイを忘れたら仕事にならん」というほど大事な「商売道具」になっているのだ。
私が学生の頃、一人一人が自分の電話をポケットに持ち歩き、いつでも話が出来る、など想像すら出来なかった。「もし、そうなればすごいことなのに」という「夢」の世界の領域だったのである。今から40年前の私の生活を見てみよう。広島市郊外の田舎から、東京という大都会に移り住んだ私の安アパートである。窓は隣の建物でさえぎられ、昼なお暗き四畳半、そこにあるのは勉強机を兼ねたコタツと、小さな本棚のみ、中古の扇風機回っている。そこには、テレビ、冷蔵庫、クーラー洗濯機など、何も置いてない。下着は洗面器で洗い、米は鍋で炊いた。そういう生活であるから、電話を部屋にもつなど、とんでもない話である。ほtんどの学生の生活がそんなものだったのである。
では、電話がないのに連絡したい時はどうするか?大家さんに頼んで、呼び出してもらうしかない。でも、呼び出しが頻繁だと面倒がられるし、長話をしていると睨まれる。手早く用件をすまし、帰省したときは、土産の一つも買ってこなくてはいけない。公衆電話から、彼女の家にかける時は、極度の緊張を強いられる。不機嫌そうなオヤジがでてきたら、言葉づかいにも気を配らなくてはならない。「わたくし、同じクラスの○○と申しますが、○○さんはいらっしゃいますか?」-我々の世代はこうして、気配りとマナーと敬語を学んだのである。
確かにケイタイは便利である。知らない場所で、知らない同士が会うなどという時に、頼もしい助っ人となる。「今,駅の東K口に立っているんですが」「はい、すぐそちらにいきます」-となる。わたしの息子などは、ベッドに寝転がって、「どうしたん?今なにしとるん?」などと、彼女とつまらん長話をしている。いつでもどこでも、相手と話しが出来るのは、すばらしいことである。しかし、ケイタイには煩わしさと危険性も同居している。いつでもどこでも、無遠慮にかかってくるのである。トイレに入っていても、おかまいなしだ。さらに、要らない情報、邪悪な情報も無秩序に流れる、という社会問題も発生している。今の時代、たまにはケイタイの電源を切って、自分を解放することも大切であろう。
「なんぼ便利じゃいうても、ケイタイがどうしても好きになれんが、わしらの世代は多いんじゃないかのう」