今年も何とか世界ラン展を見ることができた。メインステージの日本大賞のコーナーは、例年にも増してすばらしく、巨大株に無数の花を咲かせた、「豪華絢爛」という形容そのものの見事なものであった。私もラッシュアワーのごとき人波に押されつつ、写真におさめたのだが、近くで見るとカトレアも胡蝶蘭も見上げるほどに巨大で、周囲から「すごいね!」「きれいね!」と感嘆の声があがる
「これでいいのだろうか?」私は見事に装飾されたランの競演の会場で、ふと疑念を抱いた。このような花をつくり、花を見るということは、現今の世の流れと違うのではないか、と考えたのである。地球の温暖化により、二酸化炭素の削減が世界的に求められている。原油の異常な高騰は、生産にも運送にも深刻な影響が出ている。このような厳しい昨今の現状の中で、このような高価なランのイベントを開催することは罪悪ではないのか。
しかし、逆説的に言えば、このような厳しい現実があるからこそ、人はこのような華やかな催しを求めるのかもしれない。このラン展は、日常の喧騒を忘れて、夢の世界に浸るには最高の場所である。世界的に経済は落ち込み、異常な円高や物価上昇など、今の我々の生活をとりまく環境は暗い材料ばかりである。こんな時こそ人は「夢」をみたいのである。省エネの時代だからこそ、豪華なランの乱舞を見てゴージャスな気分に浸りたいのである。だからこそ、東京ドームにこんなにも人が押し寄せるのかもしれぬ。
「花を見る」ということは、「夢をみる」ということかもしれない。日常生活に必須の衣食住の欲求や、金銭や地位への欲望とも違うものである。人は現実の中で生きなくてはならないが、暗く厳しい世界だけでは、精神的に参ってしまい、生き続けることができない。それゆえにこそ、この世に歌があり、芝居があり、「花」があるのだ。花をつくり、花を運び、花を売ることで生活の糧を得ている、我々花き業界の人間は、ある意味では、歌手や俳優と「同業者」であり、夢を売ることを生業とする「夢売り人」(ゆめうりびと)である。
長い人生の中で、1年の始まりと終わりという、節目を大事にするという伝統は、日本人の中に昔から引き継がれてきた「生きる知恵」であり、日本が世界有数の長寿国となった一因ではなかろうか。「しめ飾り」や「門松」という習慣が廃れていっているということは、社会の変化とともに、日本人の心が変ってきたとも言えよう。正月、彼岸、お盆といった、1年の節目の行事に対する意識が、多くの日本人から失われた時、花の業界を支える大きな基盤もゆらぐことになる。そして、日本人の寿命も低下しているかもしれない。
卒業し、結婚し、葬儀をし、墓参りをする——人の人生は、花に始まり花に終わる。喜びの花、悲しみの花―人生の節目には必ず花がある。花は食べることはできないが、人の心に「生きるエネルギイ」を与える、不思議な力があるのかもしれない。
「“夢売り人”いうと、ちいとカッコよすぎるかのう。
ほうは言うても、わしらもえらい仕事をやっとる思わんとやっちゃあおれんよのう。」